制作楽屋話  遠州と駿州

 

さて・・・前ブログの布橋には、

異説もあります。

布橋自体、後世の作り話ではないか

とも言われているのです。

布橋エピソードは 江戸幕府が

開かれて以降に初めて記述が見られ

肝心な浜松時代の記録には

無いのだとか。

あまりにも 三方ヶ原がボロ負け

だったので、後々布橋のエピソードを

付け足したのではないかと言われているのです。

遠州大念仏は、もともと

犀が崖が難所で人がよく事故にあったり

もちろん戦で敵味方関係なく

転落したりしたのを、

供養するものではないか?

確かに、改めて考えてみると

布で出来た橋って・・・・?

昔の夜は暗いし、敵襲で

パニくっていたら、とも考えられますが、

ちょっと、御伽噺的ですよね。

・・・もうひとつ、気にかかることがあります。

同じ静岡の家康譚でも、

遠州(浜松周辺)と

駿府(静岡市あたり)に

伝わるものでは、すこし、

趣が違うのです。

浜松時代の家康は

まだ若くて失敗ばかり、

昔話では(私が調べた限りでは)

戦に負けては逃げ回り、

親切なだれかが助けてくれて

命拾いするというものです。

実際はそんなに負けてばかりも

いられないと思いますので、

ひとえに 三方ヶ原の大敗の

インパクトが大きかったのでしょう。

これに対して静岡のほうは、

もう政治を息子に任せて

隠居してきた 家康です。

(実際にはまだまだ実権を握り、

息子に指示を出しまくっていたとか)

成熟し、天下統一を果たしたレジェンド。

なんかもう、縁起のいい話ばっかり。

(私の調べた限りでは)

瑞祥が現れたとかなんとか、

ほぼほぼ別人のエピソードと

なっております。

それだけ 人物に奥行きがあるということでしょう。

それでですね・・・

思いっきり主観なのですが、

犀が崖から遠州大念仏へのくだり、

私にはちょっと引っかかるところが

あるのです。

家康は

「敵ながら哀れである。」

として念仏踊りを執り行うのですが、

このセリフ・・・なんだか

大御所っぽい!

・・・感じがする。

(あくまで主観です)

実際にそういったかどうかさえ

分かりませんが

後世の作というのも

ありうるかな、と思います。

まあ、そんなことは

どうでもいいですけどね。

遠州大念仏は私たちの宝。

大切に踊り継がれ

踊り継いでいくのです。

たとえ布橋伝説が後世の創作でも

ずっと語り伝えられてきたこと自体は

事実です。

布橋も銭取りバス停も、

伝説から生まれた地名だとしたら、

それはそれで

すごく面白いじゃないですか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です