制作楽屋話  どうする忠次

三方ヶ原の負け戦で

逃げ帰ってくる徳川軍を

迎え入れたのは

力強い太鼓の音でした。

味方を勇気づけ

迷わず城へ戻れるようにとも、

敵の武田軍にはったりをかます

空城の計とも言われています。

えんしゅうの昔話なみこぞうは、

海から太鼓をたたいて天気を知らせると

あります。

絵本「なみこぞう」に

遠州名物をできるだけ

取り入れようと思っていたので、

なみこぞうのたたく太鼓は

この太鼓、「酒井の太鼓」と決めていました。

しかし、どんな太鼓だろう?

戦でたたくから陣太鼓だよね。

軽くて 持ち運びしやすくて

大きさは人の顔くらい?

忠臣蔵のイメージで

多分手に吊り下げてたたくんだろうな。

絵本を作る前に出版社にだいたいの

ラフデザインを提出するのですが

”でんでん太鼓”呼ばわりされてしまいました。

 

幸い、酒井の太鼓は

実物を見ることができます。

経緯はよく分かりませんが、

浜松にあったものが 磐田に渡った

とのことで

磐田見付学校にあるのがそれと

伝えられています。

学校のチャイムだけでなく

地域の時報としても親しまれて

いたそうです。

 

現在 磐田見付学校は

学校としては 閉校しましたが、

昔の学校の様子を再現し

公開しています。

行ってみると

昔の教室やら 机の上には

当時の教科書。

低学年の教室なのか

椅子が小さくてかわいいなと

廊下を歩いていくと、

 

どでかい 太鼓が。

 

いや、でかい。

まてまて これ、大人二人が抱えてやっとの

大きさだよ・・・

そもそも持ち運ぶもんじゃない。

据え付けてたたくもんだわ・・・

 

色々考えを改めさせられながら

夢中でクロッキーしていると

スタッフの方が 椅子を持ってきて

くださいました。

ありがとうございます。

(それにしても 実物を見ないと

サイズ感というのは 本当に

把握しにくいです。 つくづくと

本物を見て描かないとなと

思います。)

 

三方ヶ原の合戦の時、

この太鼓をたたいていたのは

徳川四天王の一人

酒井忠次です。

そこで「酒井の太鼓」と

呼ばれるようになりました。

手の皮がむけ 血が流れても

味方のために太鼓をたたき続けたと

言い伝えられています。

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