制作楽屋話  どうして家康③

花粉飛散量が 花粉悲惨量に聞こえる今日この頃。

皆さんいかがお過ごしですか。

絵本「なみこぞう」を出版してから数年たったある日のこと。

ぼんやりと とある歴史番組を見ていた私は

不意打ちをくらいました。

三方ヶ原の合戦の特集だったのですが・・・

徳川実記によると、

ひどい負け戦、

家康はもう自害すると言い出します。

(敵に殺されるより自分で死んだほうがまだ、面目が保たれるらしい)

家臣たちが慌てて止めて

なだめ 励まし 浜松城へ向かわせます。

その際、家臣の一人が 家康に

「その鎧では目立つ」からと

自分の鎧と替えさせます。

別の家臣は

家康の身代わりとなり、

敵を足止めします。

そのすきに、

家康は浜松城まで逃げのびたのでした。

大変だ。 これじゃ茶店に寄ってる場合じゃないですね。

いや、私がショックを受けたのはソコじゃない。

・・・鎧、交換したとな?

家康は、敗走時 家臣の鎧着てる(!!)

家臣の鎧は、じゃあどんなんだったのか?

それも気になるけど、

ということは、

家康敗走時の鎧は

どうあっても

金陀美具足ではないということが

明らかになってしまいました。

ウソ描いちゃったよう!

(小豆餅伝説自体ウソですが・・・)

この場をお借りしてお詫びします。

ごめんなさい。

頑張って調べたのに悔し~

まあ、こういうことは仕方ないとは思います。

何か一つ 新発見があると 一夜にして

定説が覆されることもある世界でしょうから。

その時その時、ベストを尽くすしかないです。

まあ、そんなわけで 私の家康公は

金陀美具足を身に着け 小豆餅を食べつつ

敗走しているのでした。

 

浜松駅バスターミナル15番乗り場発のバス全部

「さいが崖」バス停を通ります。

ここには「犀ヶ崖資料館」があって、

三方ヶ原の合戦のことや

遠州大念仏のことが分かります。

下りのバス停のすぐわきに

夏目広次の碑が建っています。

夏目は三方ヶ原の合戦の時

家康を逃がした家臣の一人です。

「我こそが家康なり」と叫んで

武田の追手に向かい、

大いに混乱させ、

家康の逃げる時間を稼ぎました。

そして

討ち死にしたのです。

 

逃げ延びた家康は

戦乱の世を終わらせ

200年以上続く太平の世を

築いたのでした。

命を懸けるに値する

主君だったのですね。

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